中国の歴史002 黄河文明

上海にお住まいの皆様、そして、たまたま縁あってこのブログに辿り着いた皆様、こんにちは!
散髪屋リバティの岩佐です。

前回ブログでは、人類誕生から北京原人、黄河文明の幕開けまでをご紹介しました。今回はその続きです。

黄河文明

黄河文明は中国文明の源流の一つで、約9000〜4000年前頃に黄河流域の河南省、山東省、陝西省などで発展しました。農耕の開始とともに定住生活が生まれ、中国の最初の王朝(伝説の夏王朝)への基盤を築きました。

「王朝」っていう響きを聞くと、いよいよか?!と、なぜかワクワクしてしまします♪

黄河文明には、大きな2つの文明、仰韶文化と龍山文化がありました。

仰韶文化

約7000〜5000年前頃、仰韶文化が現れました。

仰韶文化 yǎng sháo wén huà

(長江流域には稲作中心の別の文化があった)

発見と名称の由来

1921年、スウェーデンの考古学者が河南省仰韶村付近で彩陶(彩色土器)を見つけたことをきっかけに、本格的な発掘が行われ、仰韶文化の遺跡が発見されました。仰韶村という名前にちなんで、仰韶文化と名付けられました。2021年、発見100周年を記念して、仰韶村遺跡は国家考古遺跡公園として整備されて観光地になり、遺物を誰でも見ることができるようになっています。

仰韶村国家考古遺跡公園の大衆点評ページ

数年前にオープンされたばかりなので、レビュー数は少ないです。もし今行ったら周りの人は誰も行ったことがないでしょうから自慢できそうですね。

 

住居の様子

当時の人々は、半地下式の住居に住んでいました。地面を掘り、木の柱を立てて、茅葺(かやぶ)き屋根と呼ばれるススキやヨシ等の「茅(かや)」と呼ばれる草で作った屋根をかけた、円形や方形の家でした。

集落の様子の模型

 

動物の飼育

豚や犬などの動物を飼育していました。遺跡から出土した豚の骨の分析から、豚は食肉として利用されていたことがわかっています。犬の方も食べられてたのか気になりますが、食用だった明確な証拠が少なく、主に狩猟の補助や番犬として飼われていたと考えられているそうです。

犬はこの頃から人間の友達だったんですね!

社会の特徴

仰韶文化は母系氏族社会と呼ばれる、血統や財産の継承が母親の系統を通じて行われる社会で、結婚すると男性は女性の家族と一緒に住んでいたそうです。

また、陝西省で見つかった半坡遺跡では、環濠集落が見つかっています。集落の周囲に環濠と呼ばれるお堀のような溝(幅6〜8m、深さ5〜6m程度)を掘って外敵の侵入や洪水から守る仕組みが取り入れられてました。

半坡遺跡の環濠集落の模型

お堀のような環濠

お堀のような環濠の遺跡

お堀を作って外敵から身を守るってことは、もうこの頃に中華統一を目指して戦争をふっかけてくる集落があったのかと想像を膨らませましたが、実際はそうではないようで、大量の武器の出土や、争いで破壊された集落の痕跡もなく、集落の家屋の大きさがどれも同じで、王様だとかの階層のない平等で平和的な暮らしをしていたと考えられています。

ですので、隣の集落の攻撃からの防御用ではなく、猛獣などから集落を守る為だったようです。

この頃はまだ人口も少なくて(ある説では黄河流域で数万から数十万人程度)人口密度も少ないため領土争いをする必要もなく、のんびりと農業しながら、綺麗な彩陶(赤い地に黒や赤の文様を施した土器)を作ったり、織物や装飾品を作ったりして幸せに過ごしてたようです。

この織物に関する近年の発見で、河南省の遺跡から絹織物の生産が始まっていた証拠が見つかっています。
釣り針も出土していて、すでに釣りをしていたことも分かっています。髪の毛を釣り糸として使うこともあったそうです。ヘアサロンのお客様で髪の毛が太くて硬い方は、髪がまとまらないと悩まれる方が多いですが、もしこの時代に生まれてたら、貴方の髪を使ったら大きな魚でも切れずに釣れるから嬉しい!と喜びと称賛を受けていたことでしょうね笑
彩陶
彩陶

彩陶

こうして、平和で幸せな生活を送っていましたが、仰韶文化後期(紀元前3500年頃以降)になると、一部のお墓だけ豪華になったり、埋葬品差が出てきました。これにより、富や地位の格差が少しずつ生まれ、次の龍山文化でより明確になる階層社会の予兆が出てきたと考えられています。

龍山文化

龍山文化約5000〜4000年前頃(紀元前3000〜2000年頃)、仰韶文化の後を継ぐ形で龍山文化が現れました。

龙山文化 lóng shān wén huà

主に山東省や河南省など黄河流域を中心に広がっていました。

名称の由来

1928年に山東省章丘市(旧龍山鎮)で遺跡が見つかったことから、龍山文化と呼ばれるようになりました。

土器技術の進化

仰韶文化に比べて土器の製作技術が飛躍的な進化を遂げました。
土器を作るために『ろくろ(陶車)』が本格的に導入され、手作業では難しかった均一な厚みと、左右対称の美しい円形の造形が可能になりました。
このろくろ技術を生かして、『卵殻陶(らんかくとう)』というものも作られていて、なんと、卵の殻と呼ばれるように厚さがわずか0.2〜1mmという薄さで、なんと光にかざすと透けるというから驚きです!現代の陶芸家も驚く精度なんだそうです。龍山文化恐るべしです。
卵殻陶器

卵殻陶器

中国語:蛋壳陶器
拼音:dàn ké táo qì
そう言えばこの記事を書こうとして色々と調べていると、メルカリで龍山文化時代のものだという黒陶が35,000円で出品されてるのを見つけました。(本物かどうか知りませんが…)
さらに、窯を使って焼く方法が始まり、「還元炎(かんげんえん)焼成」という酸素制限した焼き方で、土器の表面に炭素を吸着させ、金属のような光沢を放つ黒色の土器が作られました。そんな方法どうやって思いついたんでしょうかね?!
黒陶

黒陶

中国語:黑陶
拼音:hēi táo
その精巧で洗練された作風から、龍山文化は別名『黒陶(こくとう)文化』とも呼ばれ、後の青銅器の原形となるような高度な造形美を確立しました。
社会の特徴

龍山文化では、仰韶文化同様に粟(あわ)や黍(きび)の農耕を続けていましたが、集落がより大規模になり、城壁や防御用の深い堀(城壕)を築くところが増えました。例えば、陶寺遺跡や城子崖遺跡では、土を固めて作った城壁が残っていて、外敵からの攻撃を意識していたことがわかります。

仰韶文化の頃は平和な社会でしたが、徐々に人口が増えてきて資源の競争が激しくなり、争いが増えてきました。

実際、墓の埋葬品に明らかな差が出てきて、豪華な玉器や大きな黒陶をたくさん持つ「首長」のようなリーダーが現れ始めました。家屋の大きさも差が出て、集落の中心に大きな建物があったりします。また、矢じりや斧などの武器が増え、頭蓋骨に傷がついた遺骨も見つかっていて、小規模な紛争や戦争があった可能性が高いと言われています。

豚や犬の飼育は続き、動物の肩甲骨を占いに使ったりして、精神文化も豊かになっていきました。

社会は複雑化し、階層が生まれ、初期の国家形成の基盤を作りました。こうして伝説上の夏王朝につながっていくのでした。

まとめ

以上、前回ブログの旧石器時代の頃は、石を砕いて獲物追いかけたりしてワイルドなイメージでしたが、今回は陶器作りしたり、釣りしたり、犬が身近にいたりで、楽しそうな生活になってきましたね。でも後期になると小規模ながらも争いも発生してきたようです。

もし皆様がこの時代に生まれたら、どんな道を選ばれてましたでしょうか?陶芸家?農業担当?狩猟係?釣り糸屋さん?

それとも…やはり中華統一する最初の王を目指してましたか?!

俺は中華統一をする最初の王になる

 

それではまた次回。

長文を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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