上海にお住まいの皆様、そして、たまたま縁あってこのブログに辿り着いた皆様、こんにちは! 散髪屋リバティの岩佐です。
前回の「三皇五帝」では、ヘビの体をした神様やら、毒草を食べて自爆した農業の神様やら、もはやファンタジー全開の世界をお届けしました。

さて、今回はついに、中国最初の王朝とされる「夏王朝」(かおうちょう)のお話です。
実はこの夏王朝、いきなり「どんな国だったか」を語り始めるわけにはいきません。
というのも、「そもそも夏王朝は存在したのか?」と、歴史家たちが100年以上も論争を続けているのです。
夏王朝「あった派」vs「なかった派」
夏王朝(紀元前2070年頃〜紀元前1600年頃)について、実は世界中の学者がこう言い合っています。
● なかった派(主に欧米や日本の慎重な学者たち)の言い分
「証拠が見つかってないから、あるとは認められないね!」というのが彼らの主張です。
一番のネックは「文字が見つかっていない」こと。
歴史が「歴史」として認められるには、当時の人がその瞬間に書いた文字(史料)が必要なんだそうです。
次の時代である「殷(商)」にはカメの甲羅に刻まれた甲骨文字がありますが、夏王朝の時代の遺跡からは、土器に刻まれた記号のようなものはあっても、文章として意味をなす文字は一文字も見つかっていません。
さらに、殷の甲骨文字をどれだけ調べても『夏』についての言葉が見つかってなくて、もし直前に王朝があったなら、「昔の夏の王様を倒したのであった!」みたいな記録があってもいいはずなのに、それがない。だから「後世の人が作った理想の物語でしょ?」と疑っているわけです。
● あった派(主に中国の学者たち)の言い分
「いやいや、これだけ状況証拠が揃ってるんだから、あったんだよ!」と反論します。
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『史記』の凄まじい正確さ: 司馬遷が書いた『史記』の家系図は、かつては「作り話」だと思われていました。殷王朝も実在が疑われていました。ところが、後に「殷」の文字(甲骨文字)が見つかり、殷王朝の実在も確定した際、そこに書かれていた王様の名前が『史記』の記述とピタリと一致してたそうなのです!「殷の記述が正しいなら、その前の夏の記述だって正しいはずだ!」という論理です。
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二里頭(にりとう)遺跡の存在: ちょうど夏王朝があったとされる時期・場所に、巨大な宮殿跡が見つかりました。「時期や場所から考えて、これは夏王朝の宮殿に間違いない」という現場の声です。

河南省で発見された二里頭遺跡

二里頭遺跡復元模型

宮殿復元イメージ
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地質学が証明した大洪水: 2016年中国・欧米合同調査により、紀元前1900年頃に黄河で凄まじい大洪水が起きた形跡が実際に見つかりました。夏王朝は、禹(う)王が見事な治水を行なって始祖になったと言われていて、まさにこの洪水を収めたのが禹王だったんだ!と盛り上がっているようです。
歴史学者の「文字」へのこだわり
実は、世界的な歴史学のルールでは、文明(国家)として認めるための「3つのハードル」があります。
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大きな街があること(都市)
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金属器を作れること(青銅器)
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文字による記録システムがあること
この「文字」がないと、どんなに立派な宮殿があっても、文字が生まれる前の「原始時代」として扱われてしまうそうです。
欧米の学者は「文字という公的な記録がないなら、それはただの集落だね」とクールに突き放し、中国の学者は「文字がなくてもこれだけ立派な宮殿があるんだから、もう王朝ってことでいいでしょ!」と熱く訴える。
そういう言い争いが続いているわけですが、皆様はどう思われますでしょうか?
私岩佐的には…文字については、土とかに書いてたので残念ながら消えてしまったという説もあるそうだし、凄腕の職人が作った国宝級の宝物(下記に紹介)や宮殿まであるのに、原始時代扱いされるのはちょっとあんまりなんじゃないかなとも思うし、あと今上海に住んでるし….、やはり「夏王朝はあったのだ!」と言い張るスタンスで行こうと思います(笑)。
というわけで、本ブログでは「夏王朝は実在した!」という前提で話を進めていきます!
ジャーンジャーンジャーン!
1. 初代・禹王:不眠不休の「治水」伝説
夏王朝の初代の王は、五帝の最後・舜から王位を譲られた「禹(う)」です。 彼は当時の中国を苦しめていた「黄河の大洪水」を止めたヒーロー。その仕事ぶりは凄まじく、なんと13年間も一度も家に帰らなかったそうです。
自分の家の前を3回通りかかり、中から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきても、「いや、今は仕事中だから」と通り過ぎたそうです。ちょっと訳ありの家庭だったのかと思ってしまいそうですが、そうやって天下万民の為に治水に全てを捧げて見事に成功させたと考えると胸アツですね。

Aに描いてもらった禹王
2. 「世襲」の始まり
禹が亡くなった後、息子の「啓(けい)」が王位を継ぎました。前回記事の五帝に出てきたように、それまでは「もっとも優れた人物に王位を譲る(禅譲)」が行われてましたが、この時、同じ家系が国を治める「王朝」的な形が始まりました。
中国の歴史では、よく王の正統性を示すうえで血縁関係が重視される場面が多く見られますが、それはもう最初の王朝が成立した時から始まってたのですね!
3. 二里頭遺跡と「ターコイズ龍の杖」
「夏王朝はあった」と言われる最大の根拠が、「二里頭遺跡」です。そこには巨大な宮殿跡や、青銅器を作る工場跡がありました。
2002年には「緑松石龍形器(ターコイズの龍)」と呼ばれる、トルコ石で作られた竜の形をした杖が発見されました!

なんだか見えない力が宿ってそうな迫力ある龍です。
ただのお墓の副葬品としてで出てきたのではなく、非常に重要な人物であると思われる遺骨の、肩から腰にかけて寄り添うように埋葬されていて、その人物が生前に肩にに装着していたのではないかとも考えられているそうなのです!
夏王朝の王様愛用の杖だったのか、そうでなければ、特級呪術師が携帯していた特級呪具だったのか?!想像するだけでワクワクしてしまいますね!
(杖ではなく旗という説もある)

復元イメージ図
全長70センチもの杖に、2000枚以上の小さなターコイズ(トルコ石)を精密繊細に貼り付けて「龍」の形を作っています。
3700年前というアロンアルファもピンセットもない時代でこの仕上がり…。中国は、これを「国家一級文物」つまり「国宝中の国宝(超級国宝)」として扱っていて、文字通り「門外不出」として「国外への持ち出し(展覧会出品)禁止」にしていて、中国国内に来ないと目にすることができないようになっています。
現在、北京にある中国考古博物館に展示されています。

中国考古博物館の大衆点評ページ
4. 庶民の暮らし「格差と争いの始まり」
さて、当時の庶民の皆さんはどんな生活をしていたのでしょうか?
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「都市」の誕生: 人々は土を突き固める「版築(はんちく)」という工法で、頑丈な壁を作っていました。二里頭には数万人規模の人が住んでおり、もはや「村」ではなく「都市」でした。
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格差社会の始まり: この頃から「格差」がハッキリしてきます。豪華な宝石に囲まれて暮らす富裕層がいれば、何も持たずに半地下の家で暮らす庶民もいる。立派なお墓に埋葬されてる人もいれば、ちょっと気の毒な話ですが、穴に放り込まれただけだったり、生贄として埋められた様な状態の遺骨も見つかっています。
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部族同士の争い: 遺跡からは石斧や矢じりなどの武器が大量に見つかっています。集落の周りの深いお堀は、猛獣ではなく「隣の部族」からの防御を目的としていました。部族間の争いをまとめ上げなければならない夏王朝も大変だったのではないでしょうか。それで青銅器の武器工場でせっせと刀や矢じりを作っていたのでしょうね。
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お酒の楽しみ: 「あわ」「きび」を発酵させたお酒を飲んでいました。透明なサラッとした液体ではなく、ドロドロな酸味があるお酒だった様です。白酒のような強烈なアルコール度数ではなく、3%~10%ぐらいだったそうです。お酒自体は9000年前からあったそうですが、この頃には青銅のお酒用のカップで飲む様になっていて、石の楽器(石琴)や陶器の笛を奏でて日頃のストレスを発散させていたようです。
5. 暴君「桀(けつ)」による終焉
始祖の禹王から始まった夏王朝は約470年という長い時を刻みました。 しかし、17代目として即位した最後の王が、すべてをぶち壊してしまいます。
それが、史上名高い暴君「桀(けつ)」です。
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元祖・酒の池: 宮殿に巨大な穴を掘って並々とお酒を注ぎ、そこに船を浮かべて宴会をしました。
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絶世の美女・末喜(ばっき): 彼女は男装して剣を帯びるのが好きだったそうで(ちょっと気になる!)、酒の池に3000人の家来を一斉に飛び込ませて、牛のように酒を飲ませるのを見て楽しんでいました。

AIが描いてくれた妺嬉
家臣たちは「そんなことしてたら国が滅びますよ!」と忠告しましたが、次々と処刑されました。
それで、次の「殷」を建てる湯王が立ち上がります。湯王が桀王を倒す物語は司馬遷の史記に書かれています。
湯王は鳴条(今の山西省あたり)で立ち上がり、決戦当日は激しい雷雨で、湯王は「これは天が激しく怒っているのだ!」と演説して兵士の士気を上げ、対する桀王の兵士は王への忠誠などなく次々と逃亡や寝返りをし、「中国史上最高の賢臣」と呼ばれる伊尹(いいん)の活躍もあり、桀王は生捕りにされ南巣(今の安徽省あたり)へ追放されて、夏王朝は滅亡しました。
いつの時代も、「お酒」と「美女」で国が滅ぶと相場が決まっているようですね…。
ちなみに、有名な四字熟語「酒池肉林(しゅちにくりん)」は、次の殷王朝で完成するのですが、その元ネタ(酒の池)を作ったのはこの桀王だと言われています。
酒池肉林 jiǔ chí ròu lín
まとめ
以上、夏王朝について紹介いたしました。
今回の記事を書くうちに、遺跡や宝物の本物が見てみたいと思う様になってしまいました。そのうち現地の博物館に行ってしまうかもしれません!
ちなみに、夏王朝の遺跡は河南省の洛陽で見つかっています。洛陽といえば、キングダムで呂不韋がここを自分の領地として与えられていました。三国志時代には、ここで董卓がめちゃくちゃやってました。随分昔からこの地は中国の歴史の重要な表舞台だったのですね。
次回は、いよいよ呪術と青銅器の狂気が渦巻く、「殷(商)王朝編」をお届けします。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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